『初秋、足利一族の史跡を辿る』 |
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先般、鎌倉シルバーボランティアガイド協会主催の、金沢街道沿いに辿る上記史跡巡りに参加してきた。総勢100名!を越す参加者は数班に分かれて、それぞれのガイドのもと朝10時鎌倉駅を出発、総行程約6Kmの道のりを次のコースで辿り、泉水橋で午後15時頃解散になった。 行程も緩やかで道のりも比較的平坦のため、時間のわりに疲労感もなく歴史の影に隠れがちな史跡巡りに感銘を受けた半日であった。以下のコース概要を参考に皆さんも天候の良いときに、ゆっくり歩いて見たらいかがですか。 |
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鎌倉駅⇒勝長寿院跡⇒釈迦堂口洞門⇒報国寺⇒熊野神社⇒ 浄妙寺⇒足利屋敷跡⇒梶原井戸⇒明王院⇒(泉水橋)⇒解散 |
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鎌倉駅から金沢街道を下り大御堂橋から旧道に入いる。ここがスタートポイントになり、しばらく行くとあるこの標識を釈迦堂跡方面へ右にまがる。目指すは、先ず勝長寿院跡と釈迦堂ケ谷切り通しである。 | |
勝長寿院と源義朝主従の供養塔 | ||
途中にある『勝長寿院と源義朝主従の供養塔』。1185年、頼朝は父義朝の菩提を弔うため、この地に勝長寿院を建立し、義朝と郎等の鎌田正清(政家)の頚を埋葬したとのこと。 石碑に並ぶ五輪塔は、源義朝公主従の供養のため後年建てられたものである。 左:源義朝公之墓、右:鎌田政家之墓 勝長寿院には壮大な大伽藍などが立ち並んでおり、鎌倉幕府滅亡後も足利氏によって護持されたが16世紀頃に廃絶したといわれる。 ここに集められた礎石は工事等で出土したもので、柱をすえる整形跡や火災の痕跡がみられ、勝長寿院の存在と歴史を唯一語る貴重な遺物である。 《一言》頼朝が建てた大寺院に、勝長寿院、永福寺、鶴岡八幡宮があるが現存するのは八幡宮だけである。 |
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釈迦堂ケ谷の切通し![]() |
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釈迦堂ケ谷の案内板 釈迦堂ケ谷の名は、元仁元年(1224年)11月に 第三代執権である北条泰時が父義時の菩提を弔うために、ここの谷に釈迦堂を建てたことに由来しているが、その場所はいまだにわからず、幻の寺といわれている。 ただ、そのご本尊といわれている清涼寺式釈迦如来立像(重要文化財)は、現在東京都目黒行人坂の大円寺にまつられている。 |
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釈迦堂ケ谷にある切通し 北条泰時が父義時の菩提を弔うためここに釈迦堂を建てたことから「釈迦堂ケ谷」と呼ばれている。岩崖を掘り通した切通しのトンネルは、以前は金沢街道と名越方面を結ぶ主要道路であったという。現在は崖崩れ、崩壊の危険があるため通行止め。トンネルの上には北条時政(義時の父)の館跡があり、小さなやぐらと五輪塔が祀られている。 通り抜けた向こうは名越地区で、泰時と対立していた名越北条氏の拠点へ出られる。近くの東勝寺跡は1333年北条一族が滅んだところとされており、当時この辺一帯は北条氏一族の勢力圏内であったようである。 《一言》 釈迦堂口は「通行禁止」になっているが、くる人皆さん、恐る恐る洞口の中をのぞきに行っている。 ただこの地区は岩盤が脆くなっており(近くの紅葉谷やぐらは平成11年土砂崩れでつぶれた)、この切り通しも地震や豪雨でいつ崩れるかわからない状況なので、十分な注意が必要。 |
![]() 臨済宗 建長寺派 |
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報国寺は建武元年(1334年)に足利家時を開基に、仏乗禅師を開山にして開かれた(正式名は功臣山報国寺)。 古くから境内にある孟宗の竹林が知られている。 永享の乱(1439年)で足利義久が11歳で自刃した悲劇の場所でもあり、庭の裏の崖の中腹にあるやぐらに足利家時墓、義久墓という石塔がある。 山門をくぐり右手の石段を上がると本堂があり、本尊の木造釈迦如来坐像がまつられている。宅間ヶ谷にあったので、古くは宅間寺と呼ばれたが今は「竹ノ寺」と呼ばれている。 |
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境内入り口付近に北条・新田合戦の時の両軍戦死者を弔うため無数の五輪塔がある。数年前に由比ヶ浜の地下駐車場工事現場から発掘された無数の遺骨も鎌倉攻防戦の戦死者としてこの地に納められている。 |
北条・新田合戦 追悼歌碑(右側) 追悼歌 いさをしも槍も刃も埋れて 梢に寒し松風の音 華の世を所業つたなく散る君に 香一片を焚きて おろがむ |
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鐘楼脇には元弘3年(1333年)5月22日新田義貞の鎌倉攻めで、執権北条高時に殉じた北条軍将士の墓という五輪塔がある。 |
浄明寺 熊野神社 | ![]() |
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浄妙寺裏門 | 浄妙寺裏門の向かいにある熊野神社は、浄妙寺の鎮守で、また浄明寺地区の村社として古くから信仰されている。 社伝には1400年前後に社殿を再建したとある。境内に1300年代前半に尊氏の兄高直が建立した延福寺や弟直義が創建した大休寺などあったと言うが、今はない。 |
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熊野神社の入り口 鳥居をくぐり石段を上って社殿にゆくのだが、当日はちの群が発生して危険とかで、ここでストップ。 《一言》 浄妙寺と浄明寺の違い ・浄妙寺 お寺そのものの名称 ・浄明寺 お寺のある地区名称 (江戸時代は常明寺) |
鎌倉5山第5位の稲荷山浄妙寺は、文治4年(1188年)、頼朝の重臣足利義兼を開基に、退耕行勇を開山として建立した臨済宗建長寺派の古刹である。中興開基は、足利尊氏の父である足利貞氏で本堂裏の墓地に墓がある。 最初は極楽寺という真言宗(密教)の寺であったが1258年頃臨済宗(禅刹)に改め寺名も浄妙寺と称した。本堂には本尊の木造釈迦如来像(南北朝時代の作)が、まつられている。 |
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稲荷山浄妙寺 とうかさん じょうみょうじ |
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浄妙寺の本堂。足利義満が五山の制を定めた1386年頃は大伽藍を有していたが、その後火災などで衰退し、現在は総門、本堂、客殿、庫裏などだけである。本堂の屋根は、寄棟造(切り妻部分が斜めの二等辺三角形)で、もともとは茅葺の屋根であったが、近年の茅不足で今は銅板葺に変えられてしまった。 《一言》 右は本堂左脇の喜泉庵(茶室)玄関に飾られている「浄妙寺本堂」の絵で、往時の雰囲気が感じられる。 |
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足利貞氏公之墓 本堂裏の墓地に足利貞氏の墓がある(鎌倉市文化財)。「新編相模国風土記稿」に「元弘元年九月五日讃岐守 貞氏卒しければ荼毘して当寺に塔を建つ」とあり、古くから、浄妙寺の中興開基である足利貞氏の墓塔と伝えられてきた。明徳3年(1392年)の銘がある宝篋印塔(経文を収めた石積の供養塔)がある。 貞氏(1331年没)は家時の子で、尊氏の父にあたる。 ![]() |
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足利屋敷跡〜梶原井戸〜明王院 | |
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足利屋敷跡からのぞむ衣張山 頼朝挙兵に参加した足利義兼が鎌倉幕府開府(1192年)以来ここに居を移し、享徳4年(1455年)足利成氏が下総古河(今の茨城県古河市)に移るまで、子々孫々に亘り2百数十年間住み続けてきたのが今の浄明寺地区一帯である。 その後廃墟となり、今は「足利公方邸旧跡」の碑だけが残るだけだが、屋敷があったと思われる地域から望む衣張山は、当時のままである。 《一言》 衣張り山は標高100mほどの山だが、頼朝がこの山に白衣を張って夏の涼を楽しんだと伝えられる。 ハイキングコースの山頂からは鎌倉の地形を一望できる。 |
梶原井戸 明王院の前から左に行き山道を登った当たりに梶原景時の屋敷跡があり、当時使っていた井戸といわれるものが梶原井戸として残っている。1.5m四方の結構深い井戸であるが、今も地下水がたまっている。 梶原景時は、頼朝の知恵袋として鎌倉幕府で要職について活躍したが、頼朝の死後(1199年)は鎌倉から追われ屋敷を壊されて京都に向かう途中有力御家人に討たれ、駿河(今の静岡県)付近で一族は滅亡(1200年)したといわれている。 《一言》朝比奈に太刀洗いという地名があるが、頼朝の命で上総介平広常を暗殺した梶原景時が血刀を洗ったとされる小滝(鎌倉名水の一つ)があることから由来している。 |
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明王院 黒い冠木門(かぶきもん)をくぐると石畳の参道があり、その奥にひっそりと茅葺き屋根の五大堂と書院が建っている。 ここが五大堂明王院(ごだいどうみょうおういん)ともいわれる明王院で、1231(寛喜3)年、将軍藤原頼経が鎌倉鬼門除けの寺として建立したもの。五大堂明王院は当初壮大な伽藍が並ぶ大寺であり、明王院別当職は四箇重職の一つといわれ、鶴岡八幡宮、永福寺、勝長寿院と並ぶ重職であったといわれる。1281(弘安4)年には、元寇に対する異国降伏の祈祷が行われたという記録が残されているが、鎌倉幕府の滅亡とともに衰退して、寛永年間(1624〜44)に火災にあって現在のような形に落ち着いたといわれている。 |
終わり |